Pastor-K blog

気ままにアウトプットしたいことを書くブログです。

希望は神にある。

 

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「人生って、希望を失うことなく持ち続けるって難しい。」、そう思ったことがあるのは私だけでしょうか?

 人生の様々な局面で、私たちは行き詰まり、問題や困難に打ちのめされ、自分の心が失望に囚われているという経験が、誰にでもあるように思います。

 

 聖書の中で、失望を経験した一人の人物がいます。

 その人物とはアブラハムです。彼は75歳までカルデアのウルという地域に住んでいました。しかしある日、神様から「私が示す地に行きなさい」と語り掛けられます。

 そして子どもがいなかったアブラハムに、妻サラとの間に、神様は子孫を与える、つまり子どもを与えると約束されます。

 彼にとっては思っても見ない言葉でした。なぜなら、妻サラは不妊の女性だったため、二人はおそらく年齢的に子どもを諦めていたからです。当時の時代背景からして、後取りの男系子孫を残せないことは、夫婦のみならず、一族としても失望的な状況だったことでしょう。しかし神様は、二人に子どもが与えられると約束しました。この時、アブラハムは失いかけた希望を得た気分だったでしょう。

 ですがすぐに子どもが与えられたわけではありません。

 それから二人の子イサクが与えられるまで、25年という歳月が流れます。

 聖書の創世記21章に、そのストーリーが出てきます。

 

「1主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げた通りに、サラのために行われた。2サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。3アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。4そしてアブラハムは、神が命じられたとおり、生後八日になった自分の子イサクに割礼を施した。5アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。6サラは言った。『神はわたしに笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。』7また、彼女は言った。『だれがアブラハムに、『サラが子に乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、主人が年老いてから子を産んだのです。』8その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。」(創世記21:1-8)

 

 アブラハム100歳の時に、待望の子どもを授かりました。神様が告げた約束から25年目のことです。聖書の数ページの出来事で、他人事でもあるので、私たちには長かったなくらいにしか思わないかもしれません。

 でも自分に置き換えたら、約束が25年目にようやく叶えられたとき、感慨深く感動すると同時に「心底長かった!」と思わされるでしょう。正直、現代人は待てません。石の上にも三年も待てません。出来れば、「そんな先じゃないく、今でしょう!」とツッコミたくなります。

 私は待つのが苦手です。行列の出来るお店にわざわざ並びません。待たされるのが嫌いです。仮に私がアブラハムなら、たびたび疑い、「もう無理!」と捨て台詞を吐き、諦めてしまうと思います。

 

 しかし神様というお方は、ご自身の性質ゆえに真実で忠実です。約束を必ず果たされ、ご自身のベストなタイミングで実行されます。

 そのタイミングが私たちとは違うのです。

 私たちのベストなタイミング、サッカーでいうところの、オフサイドラインギリギリで出して欲しいタイミングではないのです(私なら「神様、なぜ小野伸二のようにエンジェルパスを出してくれないのですか...」と呟いてしまう。アカンアカン、呟きも罪がな)。

 つまり、あらゆることにおいて、”神の時”があるということです。それを自分の時間軸やタイミングで受け取れたい、受け取れるものと思うから、そのタイミングが違うと、己の感情が猪木ボンバイエしてしまいます。

 

 Ⅱペテロ3章8節に、このような言葉があります。

「しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千円は一日のようです。」

 

 「長いな〜、千年は長い。その時間の尺、すみませんが違いすぎますから...」 

 とにかく神様の時、タイミングがベストなのです。

 

 では、なぜ25年もの時を要したのでしょうか?

 それはアブラハムの信仰を養い育てるためです。25年はアブラハムにとっての信仰の訓練期間でした。神様はじっくりと時間を取られ、プロセスを踏ませるお方です。

 正直、アブラハムに語った75歳の翌日でも、サラとの間に子どもを授けることだって出来ました。25年間のどのタイミングでも出来たのです。無から有を創造される神に不可能は有りませんでした。

 神様は信仰によって約束のものを手に入れるには、忍耐が必要であることを学ばさせる目的がありました。

 神様というお方は、結果に至るまでのプロセスに、価値を置かれます。あなたが神様に信頼を寄せたのか。忍耐の実を結んだのか。疑いや不信仰に陥っても、再び神様に信頼を置くようにしたのか。結果に至るプロセスに目を留められます。

 

 私たちの人生も同じです。

 信仰という人生のレースで、ゴールに至るプロセスに価値を置かれます。神様に信頼して歩んだのか。待ち望むプロセスの中で、忍耐の実を結んだのか。

 私たちはどうしても結果にばかり目を向けがちです。しかし結果に至るには、プロセスを踏まなければなりません。そのプロセスに価値があります。

 

 しかし、私たちのこれまでの人生経験の中に、待ったのに与えられなかったこと、約束が守られず裏切られたことがあると思います。親との約束、友達や学校の先生、職場関係、異性、夫や妻など。近しい人ほど、裏切られるとその傷は深く残ります。

 それゆえ、痛みが疼き、もうガッカリしたくない、裏切られたくない、傷付きたくないと思います。そして警戒心から、防衛的に疑い信じないでおこうと思うのです。そして「ほら、思ったとおりだ!」、「どうせこうなると思った!」と潜在的に悪い結果をイメージし、その通りの結果を招いてしまうことがあります。

 

 しかし、聖書の神様は真実で忠実なお方、不可能を可能にされるお方です。そしてこのお方に信頼するなら、決して失望することはありません。

 ローマ書5章5節に、「この希望は失望に終わることがありません」とあります。

 

 文脈から、それはローマ書5章2節「神の栄光に預かる望み」のことですが、神様はご自身に信頼する者に失望を与えることはありません。失望的だと思うことがあっても、それは神の目に失望的な状況ではありません。失望だと思うのは、希望を見失っているからです。希望がなくなるわけではありません。ただ失望に目が向けられているがゆえに見失っているのです。そして神様に信頼するなら、決して失望で終わらない、聖書はそう約束しています。

 

 聖書は、神様に信頼するなら、必ず本物の希望を受け取ります。

 しかし本物の希望を受け取るプロセスに、神様は価値を置かれます。それはなぜかと言うと、そのプロセスでしか結ぶことのできない収穫の実があるからです。その実は神様にとって、とても価値のある実です。神様が受け取りたいと願う実です。私たちが神様に献げる事ができる実です。それは品性の実です。その実が結ばれるのは、苦難の中で忍耐することによって結ばれます。

 

 ローマ書5章3節ー4節

「3それだけではなく、苦難さえ喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」

 

 神様を信頼して忍耐し待ち望む信仰が、アブラハム含め、信仰の先人たちに共通する姿です。そして信仰による忍耐により品性が練られ、希望を抱きつつ、信仰の勇士として彼らは天に凱旋して行きました。ヘブライ書11章にそのことが書かれています。

 彼らの信仰は決して受身的、消極的な信仰ではありません。慕い求める信仰であって、積極的、能動的な信仰です。

 神様の祝福は、棚から牡丹餅といったものではありません。信じて待つことは必要ですが、ただ何もせずに待つことではありません。

「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば与えられる」と聖書は言っています。

 これは受身や傍観ではなく、能動的・積極的な姿勢であり、信仰です。

 

 私たちの信仰はどうでしょうか? 

 受身的な信仰?それとも、能動的な信仰?

 怠慢型の信仰?それとも、準備型の信仰?

 

 神様に希望を置くことにおいて、信仰に生きることにおいて、どのような姿勢が神様に、且つ、神の国において喜ばれるのでしょうか?

 イエスキリストが、このように言われました。

 

 マタイの福音書11章12節

バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」

 

「天の御国は激しく攻められています」とあるように、積極的・能動的な信仰が喜ばれます。そのような人は決して怠慢な信仰ではなく、準備する信仰の姿勢で生きています。マタイの福音書25章に出てくる、花婿を迎えるため油を備えていた五人の賢い娘たちのような姿勢です。

 

 実際のところ、わたし自身は受動的で怠慢な信仰や習慣があります。最近、習慣化の本を読んでいて、改めてそう気づかされます。習慣は第二の天性と書かれていましたが、良い習慣(プロセス)は良い実(結果)を結ぶ確率が高いでしょう。

 信仰においても、積極的・能動的な信仰で、神様の祝福をいつでも受け取る姿勢、また神様がいつでも用いることができるように準備していく姿勢が大事だと思います。もちろん、神様は準備できていなくても用いられるし、私たちが準備が出来ていないから、まだ待ってくださいということでもありません。

 

 ただ日々、いつでも刃を研いでおく必要があるように思います。神様が用いるか用いないか、そのタイミングや場所、ポジションは神様の主権ですが、準備しておくか、しないかは人の領域、責任です。

 

 伝道者の書10章10節

「斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。」

 

 団体競技のスポーツ選手は、いつも自分がレギュラーとして出れる保障はありません。だからこそ、選手はいつ自分が出ても最高のパフォーマンスが発揮できるように準備しておく必要があります。

 でもどうでしょう。「自分はレギュラーとして出れっこない。日の目を浴びることもない。」、そう諦めてしまったり、腐ってしまったら、良い準備など出来っこないです。

 しかし準備できている人は自信があります。期待に応える準備ができています。

 神の国の働きは、もちろん私たちのキャラクターや能力・スキルによるものではありません。自信という名の過信ほど愚かであり、むしろ神の国の働きを妨げる要因となります。

 けれど、苦難の中で砕かれ、忍耐を通して品性が練られ、自分自身によるのではなく、イエス様に本当の希望を置いた上で、「どうぞ神様、あなたの御用のために私を使ってください。その準備はできる限り継続してきました。」と告白する者に、神様は一目置かれるのではないでしょうか。

 ですから、いつでも刃を研いでおくことです。

 

 最後にイザヤの告白を覚えたいと思います。

 イザヤ書6章8節

「私は主が言われる声を聞いた。『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』私は言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください。』」 

 

 アブラハムは子を得られない失望を経験しました。しかし神様の約束を受け、希望を得ました。けれどその約束が与えられるまで、25年も忍耐して待つ必要がありました。途中、疑いや不信仰になることもありました。そのため、彼らは自分たちで子どもを得ようとしました。

 しかし神様はご自身のタイミングで、ご自身の方法によって、約束の子どもを彼らに与えられたのです。この期間は、アブラハムの信仰の訓練のシーズンですが、そのことによって忍耐の実が結ばれ、彼の品性が練られたのです。そしてこの期間の中で、彼は信仰による永遠の希望を手に入れました。神様はこのプロセスに価値を置かれます。

 

 信仰の父アブラハムは、同じ信仰者たちのロールモデルです。であれば、私たちも全く同じということはなくても、似たようなプロセスを踏むことになるでしょう。それは神様があなたを選んでいる証拠です。アブラハムが受け取った永遠に変わらない希望をあなたに与え、その希望に信頼して生きて欲しいと願われています。そしてあなたの品性を苦難による忍耐を通して練り上げ、その品性の実を神様が受け取りたいと願われています。

 また神様は、あなたを用いて神の国を拡げていきます。

 ですから、いつでも刃を研いでおきましょう。

 そしてイザヤの告白を自分の告白として、神様にささげましょう。

「ここに私がおります。私を遣わしてください」 アーメン。